

はじめに
正式鑑定の実務は,鑑定人が被告人を検診することで開始されるが,その前に実施しておくべき重要な任務がある.鑑定に必要な資料を収集/整理することである.
司法精神鑑定は,精神医学的診断過程に他ならない.正確な診断の鍵は,患者が供述する主観的情報と関係者が供述する客観的情報の質に依拠している.妥当性と信頼性が維持された情報を豊富に集積すべきであるが,刑事精神鑑定に際しては,現在(鑑定時)の情報のみでなく,過去(犯行時)の情報が不可欠となることに注意すべきである.
鑑定人が使用できる情報は,裁判所から貸与される公判関係の資料(一件記録と呼ばれる)と,鑑定人が個人的に入手した資料から構成される.前者の解釈に際しては習熟過程が必要であり,後者の採用に関しては証拠能力が問題になる.このような視点から,本稿では鑑定人が資料を解析する際に必要となる注意事項を解説する.
一件記録という資料
宣誓を済ませた鑑定人は,裁判関係資料の閲覧が許可される.実際の形式としては,複写された詳細な情報が貸与される.一件記録と呼ばれる資料であるが,貴重な情報源として最も重要な価値を有している.
一件記録の本体は,厚さ5〜10cm程度の文書の束である.一件記録の分量は,事件の重大性と複雑性に規定される.1冊のみのこともあれば,分冊されていることもあり,時には10冊以上に及ぶこともある.
原則として,鑑定人はすべての関係資料を閲覧できるが,裁判所が例外措置を講じる可能性を認識しておくべきである.代表的な例は,起訴前に実施された簡易鑑定や嘱託鑑定の結果である.これらの鑑定書は,正式鑑定においても参考となる重要な情報を多数含んでいるが,鑑定人に与えられる資料から除外されていることも多い.正式鑑定を実施する鑑定人が,起訴前鑑定の結果を事前に認識していた場合には,先入観が発生する危険性を回避できないという意味において,このような裁判所の対応は合理的と思われる.
鑑定人に貸与される一件記録は,複写された裁判関係資料であるが,鑑定書の提出と同時に裁判所に返却すべきものである.鑑定人は,鑑定期間内における厳重な保管責任を所持している.被告人の人権を擁護するという側面からも,一件記録の管理には細心の注意が必要とされている.
著者は,このことの意義を重視しているので,一件記録を誰の目にも触れさせない.さらに,司法精神鑑定の実務に際しては,すべての過程(検診前の資料の精査,面接と検査を含むすべての検診,パソコンによる鑑定書の作成)を鑑定人自身が処理している.
一件記録の構成
一件記録は,公判段階の資料と捜査段階の資料から構成されている.表紙には,裁判所名,事件番号,事件名,裁判官(合議ないし単独),書記官,被告人,検察官,弁護人(私選ないし国選)が記載されている.
公判段階の最初の資料は起訴状である.検察官が,「下記被告事件につき公訴を提起する」として起訴した事件内容であり,被告人に関する事項(本籍,住居,職業,氏名,生年月日),公訴事実,罪名および罰条が列挙されている.起訴状は単数および複数のいずれかである.鑑定人に問われているのは,前者であれば本件犯行時,後者であれば本件各犯行時の精神状態である.
第1回公判調書の内容は,司法精神鑑定に重大な意義を有している.最初に,被告人が本人であることを確認するための人定質問が実施される.ついで,被告事件に対する陳述として,被告人と弁護人による罪状認否が聴取される.最後に,検察官による冒頭陳述が展開される.一件記録には,これらすべての過程が詳細に記録されている.
正式鑑定に至る過程は,弁護人の鑑定申請書に開始される.「下記のとおり鑑定を申請する」という内容であり,弁護人が精神鑑定を希望する理由が説明されている.時には,鑑定人の選任,鑑定嘱託事項,鑑定方法に関する要望が付記されることもある.
裁判所は,弁護人の精神鑑定請求に対する検察官の見解を聴取する.それを受けた回答が検察官の意見書であり,「弁護人から精神鑑定の請求があったが,検察官の意見は下記のとおりである」として,通常は精神鑑定を不要と考える理由が展開される.これは自然な反応である.検察官は被疑者の責任能力を認めて起訴している.正式鑑定の必要性を認めることは自己矛盾に他ならない.
これらの過程を経て,裁判所は正式鑑定の実施を決定する.裁判所の決定書には,鑑定人候補者の氏名,および鑑定人尋問の期日と場所が記載されている.
公判段階の資料の最後に,法廷において聴取された被告人の供述調書と証人の尋問調書が記録されている.後者は,「良心にしたがって,真実を述べ,何事もかくさず,また,何事もつけ加えないことを誓います」という宣誓後の供述であり,事実に反することを述べれば,偽証罪に問われることがある.
捜査段階で入手された資料は,証拠書類という名目で一括して掲載されている.これらの書類は通し番号で整理され,検○号は検察官,弁○号は弁護人によって提出された証拠であることを意味している.
証拠書類は極めて多彩な文書から構成されている.被害届,現行犯人逮捕手続書,逮捕時の弁解録取書,実況見分調書,写真撮影報告書,捜査状況報告書,被告人と参考人の供述調書などは,すべての一件記録に共通して収録されている重要な資料である.
さらに,個別の事例ごとに相違する証拠書類が収載されている.これらには,犯罪経歴がある場合の前科および前歴の照会書,治療経歴がある場合の経過を記録した診療録,勾留中の異常行動がある場合の身上調査照会書と回答書などが含まれている.
精神医学的診断に直結する証拠書類も含まれている.酩酊犯罪における逮捕時の状況と血中アルコール濃度,覚醒剤犯罪における注射痕と尿中覚醒剤の定性などである.
一件記録の整理
一件記録の価値をどの程度重視するかの判断は,鑑定人ごとに著しく相違している.不要な予断が避けられないという理由で,一件記録を精査することに拒否的な専門家も存在する.最も問題が多いのは,捜査段階で聴取された被告人の供述調書の内容である.
著者は,そのような考え方を否定するわけではないが,検診を実施する前に一件記録を精読し,可能な限り多くの情報を取得するように努力している.さらに,特に重要と思われる情報は,スキャナーでパソコンに取り込み,文書ファイルとして保存している.誤変換には細心の注意を必要とするが,周辺機器の性能の向上によって楽な作業となった.これらの文書は,鑑定書を作成する上で不可欠な基礎資料になる.
著者が,文書ファイルとして全文を保存しているのは,公訴事実が記載された起訴状と検察官による冒頭陳述要旨である.前者に関しては,鑑定書に転記する必要があるために取り込んでいる.後者は,第1回公判で展開される検察官の冒頭陳述の要旨であり,被告人の身上および経歴等,犯行に至る経緯および犯行状況等,その他情状から構成されている.被告人の身上と経歴には,鑑定書にも応用できる生活歴が要約されている.犯行に至る経緯と犯行状況等には,捜査段階における被告人の供述調書が要約されている.検診時の面接に際して,被告人の意見と照合させるために有用な資料である.
第1回公判における被告人と弁護人の罪状認否,公判における被告人の供述調書と証人の尋問調書,現行犯人逮捕手続書,逮捕時の弁解録取書,被告人と参考人の供述調書,前科および前歴,過去の診療録,身上調査照会回答書などの内容は,要約した形で文書ファイルに変換して保存している.
罪状認否に関しては,しばしば動機に関する異論が主張されるが,被告人と弁護人が公訴事実記載の行為を被告人の所為であると認めていなければならない.著者は,このことを否定している事例の鑑定は引き受けていない.さらに,責任能力に関する弁護人の見解に注目すべきである.
捜査段階と公判段階で聴取された供述調書を比較すれば,参考人の記録には一般的に微細な差異しか認められないのに対し,被告人の記録にはしばしば顕著な解離が見いだされる.このような事実は,一件記録の解釈をめぐる最も重大な問題であると考えるので,次号で詳細に解説する予定である.
現行犯人逮捕手続書には,逮捕直後の被告人の反応が記録されている.逮捕時の弁解録取書には,犯行時の記憶に関する最も早い時期の回想が含まれているが,時間経過による修飾を受けていないという意味で精度の高い情報である.著者は,このような視点からこれらの資料の意義を重視している.
被告人の犯罪経歴は,鑑定書においても犯罪歴として記載すべき事項である.被告人が累犯者である場合は,犯罪生活曲線を分析する必要が生じてくるが,そのためにも前科と前歴に関する情報は不可欠である.
特に精神疾患であるが,治療歴が認められるある被告人の一件記録には,しばしば診療録の複写が収録されている.診断自体に関しては,鑑定人の視点から再検討すべきであるが,医療専門職の記録として重要である.さらに,看護記録や検査所見などから,貴重な示唆が与えられることも多い.
身上調査照会書と回答書は,検察官の照会に対する刑務所長の回答であり,勾留中の被告人の動静が記録されている.通常,これらの文書が必要になるのは,勾留中の被告人に精神症状が観察された場合である.従来から罹患していた精神障害の再燃や,拘禁反応の出現などが含まれるために,司法精神医学的な検討が不可欠になる.
著者が重視していない証拠書類は,実況見分調書,写真撮影報告書,捜査状況報告書などである.精神科医である鑑定人が,探偵の真似事をしても無意味と考えているので,これらの資料を精査したことはないが,実況検分が実施された日付は注意している.犯行に関する被告人の記憶が,その前後で変化しているかどうかを検討するためである.
その他の資料
刑事司法鑑定に必要な全資料が,一件記録に完備されているわけではない.義務教育期間中の学習指導要項,拘置所における動静記録,服用している薬物の内容など,有意義な情報が欠如していることも多い.
鑑定人は,職務に付随する権限として,関係者に必要な資料の提供を求めることができるが,このような情報はしばしば個人の人権に触れる内容である.私的に情報を収集しようとするのではなく,実際の手順は裁判所や検察庁に依頼すべきである.
頭部外傷に基づく知能低下が疑われる事例の鑑定に際しては,就学中の学習指導要項が貴重な情報を提供する.受傷前と鑑定時の知能指数を比較すれば,頭部外傷の影響を明確に把握できるが,この種の資料を入手することは,裁判所からの依頼であってもしばしば困難である.規定された保存期間が経過したために,廃棄されていることもあり,プライバシーを侵害するという理由で,学校長が提供を拒否したりすることもある.
学校長の配慮は理解できるが,結果的に被鑑定人の不利につながる可能性もある.この種の情報が不可欠な時には,文書による本人の同意書を取得した上で,資料の提供を求めることも有力な方法と思われる.
勾留中の動静や服用中の薬物は,鑑定時における被告人の状況を評価するために不可欠な情報である.これらの情報の管理者は刑務所長であるが,鑑定人が私的に依頼した場合には情報提供を拒否されることもある.命令系統を考慮すれば,裁判所書記官を経由して検察官に依頼すべきであり,比較的容易に情報が入手できるはずである.
個人的経路を利用して,医療機関に情報提供を求めることも望ましくない.特に精神科医療施設からの情報は,同業者意識があるため比較的容易に取得できるが,このような手段を安易に採用すべきではない.私的経路で集積した資料は,公判廷において証拠能力を否定される可能性を認識すべきである.
被告人の家族歴,既往歴,生活歴は,精神医学的に重要な情報である.ある程度の資料は,被告人や参考人の供述調書ないしは検察官の冒頭陳述要旨として,一件記録にも収録されているが,精神科医の視点からは不十分な内容のことが多い.
必要な情報を補完するために,被告人の家族との面接を要する事例もあるが,原則として必要最小限にとどめる方が望ましい.鑑定人は,家族の人権に配慮すると同時に,被告人と家族の間に生じる複雑な心理的力動に対する注意を怠ってはならない.
私的に収集した情報が有意義であれば,その内容を鑑定書に記載すべきことは当然であるが,それらの資料を採用する場合には,証拠能力を維持させるためにも,情報を入手した経路と日時を明記すべきである.
おわりに
裁判関係の文書は,長期間B5の縦書き書式を維持してきたが,2001年1月1日を期してA4の横書き書式に変更された.時代に即した進歩と思われる.
一件記録を構成している日本語は,国語学者をして驚倒させるべき性状である.少なくとも,文部省が勧告している現代仮名遣いとは縁遠い世界である.
過剰な漢字変換(及び,並びに)と意外な平仮名書き(覚せい剤,わいせつ)が汎用されている.句読点の氾濫は常識外の程度に達し,「思料する」という用語などは,法廷における専用語と思われる.
特有の日本語からも難解な一件記録であるが,鑑定人は最も重要な基礎資料として一件記録の精査を継続している.自己に授与された重大な責任を果たす上で,不可欠の業務であると確信しているからである.
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