

はじめに
被鑑定人の検診過程が終結し,精神医学的診断に関する結論が得られた.正式鑑定の結果は,精神鑑定書と呼ばれる文書で裁判官に報告しなければならない.
鑑定書を記載する際には,以下のような事項に注意すべきである.1)裁判官の助言者としての中立性が厳密に維持されている.2)鑑定嘱託事項に関する明確な結論が示されている.3)医学に関する専門知識がなくても容易に理解できる内容である.
最後の事項は重要である.鑑定書は,裁判官に対する報告書であるが,検察官と弁護人にも鑑定書の複写が提供される.司法関係者は,医学でなく法律の専門家である.難解な専門用語を駆使した文書を提出すれば,証人喚問された法廷で糾弾される.
鑑定書の構成は規定されていないが,一定の書式に従って整然と記載すべきである.本稿では,著者が用いている書式に従って鑑定書を記載する際の注意事項を解説するが,個々の事例の特徴に応じて,構成の一部を変更する必要が生じることは当然である.
序 文
この章では,精神鑑定を命じた裁判所と裁判官,鑑定人尋問の日時と鑑定嘱託事項,実地検診を施行した日時と場所,一件記録以外の参考資料と資料の収集方法,
被鑑定人に関する情報(本籍地,現住所,職業,氏名,生年月日),起訴状に示された公訴事実などを簡潔に記載する.
家
族
歴
精神障害に関する家族歴が特に重要であるが,一件記録を精読しても往々にして必要な情報が不足している.被鑑定人から聴取しても,得られる情報の質と量はしばしば限られている.必要に応じて家族面接を実施し,信頼できる情報を収集すべきである.
既
往
歴
身体的既往歴と精神的既往歴に分けて記載するが,後者の意義が特に重要である.精神障害の治療歴がある場合には,一件記録に主治医の供述調書や診療録の複写が収録されていることも多いが,鑑定人は独自の視点で診断に再検討を加えるべきである.既往歴と現病歴の識別には十分な注意を要する.既往歴に記録すべき疾患の条件は,すでに疾患過程が終結していることである.
生
活
歴
生育歴:幼小児期の家族関係,主たる養育者,経済状況などに焦点をあてる.家族の実名を記載する必要はない.関係者のプライバシーに対する配慮を忘れるべきではない.
教育歴:学歴と適応を検討する.教育施設で作成された行動記録は,極めて貴重な資料であるが,しばしば入手が困難である.
職業歴:定職に従事する能力と職場における適応状況を分析する.頻回に転職している場合には,その原因を把握すべきである.
結婚歴:年齢にふさわしい結婚生活を維持する能力を評価する.職業歴と結婚歴は,最も敏感な社会適応状況の指標である.
犯罪歴:犯罪経歴を認める事例では,一件記録に前科と前歴が示されている.本件犯行との類似性に注目して,犯罪生活曲線を分析すべきである.
その他:本来の性格傾向,友人関係,喫煙と飲酒,薬物使用歴などを記録する.中毒性精神障害の事例では,飲酒歴や覚醒剤使用歴などの節を追加すべきである.
現
在
症
この章では鑑定時の状況を報告する.その内容は,本件鑑定時の状況として,しばしば鑑定嘱託事項に含まれている.
著者は,最初に鑑定時の被鑑定人の全般的状況を解説している.精神鑑定に対する被鑑定人の反応と態度が,鑑定結果に重大な影響をもたらすと確信しているためである.
身体的現在症の節では,自覚症状,身体的理学所見,神経学的検査所見,実施した諸検査の結果を要約して記録する.異常所見が検出された場合は,臨床的意義に関する解説を付記すべきであるが,正常所見に関する詳細な説明は不要である.
精神的現在症の節では,鑑定時に観察された精神症状を解説するが,精神医学教科書の精神症候学に記載された順序で整然と記録すべきである.さらに,精神症状を集約した状態像診断を検討すべきである.
心理検査所見の節では,個々の検査結果を報告するとともに,それらを総合した印象を説明すべきである.特にこの節では,司法関係者が理解できる平易な用語による,臨床的意義に関する解説が不可欠である.
犯行時の状況
この章では犯行時の状況を分析する.その内容は,本件犯行時の状況として,常に鑑定嘱託事項に含まれている.
犯行に関する認識の節では,公訴事実に対する被告人と弁護人の認否に関連する問題を検討している.通常,第1回公判調書に記録されているが,特に事実行為に関する認識に焦点をあてている.
検察官の冒頭陳述要旨は,犯行に至る経緯および犯行状況等に大別できる.前者は,被鑑定人の家族歴,既往歴,生活歴の要約であるが,医師の視点からは過度に簡略な内容であることが多い.後者は,捜査段階における 被鑑定人の供述調書の要約と考えられる.独立した鑑定人の立場から,その内容に関する被鑑定人の意見を聴取することによって,しばしば貴重な示唆が与えられる.
被告人の供述内容に関しては,時系列的に3種類(捜査時,公判時,および鑑定時)に区分し,相互間の矛盾を解析する作業が不可欠である.前2者は一件記録に収録されているが,鑑定人は医学的視点からの再検討を加えるべきである.鑑定時の供述内容は,可能な限り逐語的に記載すべきである.
参考人の供述内容に関しては,一件記録に収載されている参考人の供述調書を検討するが,特に被鑑定人と参考人の利害関係に関する注意を怠るべきではない.
この章の記載を通じて,鑑定人が特に注意すべき事項は,医学者としての限界をわきまえることである.犯行の動機に関する詳細な検討は,司法官の専門的な判定に委ねられるべき事項である.個人的興味から,鑑定人が私立探偵の役割を演じてはならない.
診断と説明
鑑定書の中核を形成する章である.明確な精神医学的診断を提示するとともに,診断学的結論に達した根拠に関する詳細な解説が必要である.そのような説明内容は,鑑定嘱託事項に即応したものでなければならない.
精神障害の有無と性状の節では,伝統的な病因的分類(外因性精神障害,内因性精神障害,心因性精神障害,性格障害,および知的障害)に立脚して,被鑑定人が精神障害に罹患している可能性を検討し,それが肯定される場合には,精神障害の性状に関する分析を加えている.すなわち,この節では伝統的(非操作的)診断を実施している.
精神鑑定書を作成する際に,従来の伝統的診断と最近の操作的診断のいずれを採用するかは,容易に決定できない難問である.現状では,著者は両者の基準による診断を報告しているが,将来的には操作的診断が優先されるべきであると確信しているので,ICD分類という独立した節をもうけている.
精神障害の操作的診断として,ICD分類とDSM分類のいずれを採用するかは,鑑定人が自由に選択すべき事項と思われるが,時には異なる診断に達することがある.典型的な例は,精神分裂病の診断に要する罹病期間の規定であるが,このような問題が生じる場合には,両者の基準による解説が必要である.
最新の操作的診断は,古典的な精神障害の2分法(精神病性障害と非精神病性障害)を廃棄している.本稿では,そのことの是非には触れないが,犯行時の責任能力が焦点となる刑事鑑定においては,2分法の有用性が維持されているとの考えに基づいて,この節の最初に2分法に依拠していたICD-9分類による位置づけを解説している.
ICD-9の短所は,単なる分類システムを列挙しているのみで,個々の障害に関する明らかな解説が示されていないことである.それに対してICD-10とDSM-Wの長所は,明文化された診断基準が規定されているのみでなく,容易に入手できる書物として市販されていることである.このような文書が提供している知識は,精神障害に関する司法官の認識を増強されるとともに,医学と法律の対話を促進させると確信しているので,著者はICD-10による詳細な解説も加えている.
多彩な診断分類を駆使して分析することの問題点は,類似の概念の疾患が異なる名称で呼ばれたり,異なる概念の疾患が類似の名称を付せられたりする結果,一層の混乱がもたらされる可能性が生じることである.好適な例は,ICD-9の急性分裂病様挿間や潜伏分裂病である.これらの概念が,ICD-10とDSM-Wのどこに位置づけられているかは,精神科医であっても熟慮を要する難問である.
精神障害の分類に関して,現状では完全なコンセンサスが得られていない.そのような状況であるが,刑事精神鑑定の診断は,多数の研究者の意見を集約した分類に立脚すべきである.このような趣旨からも,国際的に使用されている最新の操作的診断を採用することは,極めて合理的な判断と考えている.
センセーショナルな事件に際して,複数の精神科医が鑑定を実施し,著しく相違した結論を報告することも稀ではない.このような事態が発生することは,個々の鑑定人が真摯に努力して鑑定業務に従事しても,不可避的に生じる現象と思われるが,臨床精神医学に対する司法官や一般国民の信頼感を低下させる危険性が否定できない.この種の問題の発現を可能な限り回避するためにも,明文化された診断基準を有する操作的診断に準拠することが有意義と考えられる.
責任能力と今後の処遇
最高裁の判例を参照するまでもなく,被鑑定人の責任能力と今後の処遇の判定は,裁判官の裁量に委ねられた事項である.このような原則を考慮すれば,鑑定書にこの種の章を設ける必要はないはずであるが,実際に責任能力と今後の処遇に関する見解を含まない鑑定書を提出すれば,ほぼ確実に証人として法廷に喚問され,まさにこれらの事項についての意見を聴取される結果を招く.
このような現実が存在するので,鑑定書の中で精神科医としての鑑定人の見解を控えめに述べておくことは,むしろ望ましい対処と考えている.そのことによって,証人喚問の可能性が減少するのは確かである.
責任能力の判定基準は,本件犯行時における被鑑定人の「是非善悪と弁別能力とそれに従って行動する能力」である.このうちの前段は生物学的能力,後段は心理学的能力と解釈されている.そして,専門領域の特殊性から鑑定人は前段,裁判官は後段の分析に習熟しているとみなされているが,これらの能力を明確に2分することは不可能である.
このような事実を踏まえれば,鑑定人が責任能力に関する意見と今後の処遇に関する参考意見を述べることは,裁判官が結論をくだすための情報提供として,積極的に肯定されるべき対応と考えられる.
鑑定主文
鑑定主文は,鑑定結果の要約であり,可能な限り簡潔に記載すべきである.参考のために著者の実例を示す.1)本件犯行時の被鑑定人は精神分裂病に罹患していた.2)この時期の被鑑定人の是非善悪の弁別能力とそれに従って行動する能力は,完全に失われる程度には至っていなかったが,かなり重篤な障害を被っていた.3)その他の参考事項は本文中に記載した通りである.
おわりに
精神分裂病の診断に際して,本邦の精神病理学者の大多数は,「外見的な表情の冷たく硬い感じ」を最も重視している.それでは,「明確なプレコックス感が存在したので,精神分裂病に罹患していると判定した」という精神鑑定書を提出したと仮定すれば,司法関係者が理解することは可能であろうか.
医学と法律の専門家の距離が,このような例証に示されている.鑑定人に求められているのは,法廷で「幻覚や妄想のない精神分裂病が存在するのですか」と叫ぶ,検察官をも納得させられるような文書である.
多大な時間を要する鑑定書の作成は,鑑定人にとって重度の労苦であるが,この業務を経過しなければ鑑定実務は終結しない.幸いなことに,パソコンの普及によって鑑定書作成に要する時間は大幅に短縮した.
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